網膜物語 −独多甚九

1

 ドクタア・ベンは若い眼科医である。彼はひどく気まぐれで物ずきで、そして一寸した才人である。人が真面目になるべき所をフワリとユウモラスに逃げる癖がある。その点では楽天家である。誰も彼の心を知っているものはいない。或人は彼をだらしのない怠け者と見、或人は愛すべき純情の凝り屋と見ている。
 彼は今、実験暗室から撮影済のフイルムをはずして自分の部屋に引上げたばかりだ。虹彩炎の治療に通院している娘の呉れたコロナを一本、火をつけてロにもってゆきながら、午前中よみさしのアメリカン・ジャアナルを拡げていた。
 −しかし今日は意外に疲れている。先刻の患者に手こずらされたせいかも知れない。ゆっくり立上って首を振っている扇風機のノップをビシッとつまんで固定させると、彼は暫く放心した様にシガレットをくゆらせているのだった。机の上のジャアナルは扇風機のためにパラパラとぺイジがめくれた。その時ドアをノックする音がして「失敬」と入って来たのは助教授の宇木さんである。
「ドクタア・ベン。どうかネ、暑いネ。相変らず秋葉スタジオは御繁昌らしいな」
「お蔭さまで撮影税はなくなるそうですし、皆様の御ヒイキがありまして−。今日もこの一ロール撮っちまったところです」
 机の上にころがっているフイルムを指しながらドクタア・ベン・アキバは真面目な顔で云うのである。
 念のために断っておくがドクタア・ベンは日本人である。彼の父は勤勉でない彼に秋葉勉なる命名をすると云う皮肉を思いがけなくやってしまった。生れたばかりの長男が「勉」である様に見えたのは、醜にして鈍なる娘に美智子と云う命名をしている父親と同様、父性愛のなせるわざであってその責任を問うわけにゆくまい。高等学枚時代の友人は彼があまりにも「勉」でないのに喜んで彼をベン、ベンと呼んだ。勤勉でないことを些か偉いことの様に思う高等学枚では、それから又、ベンアキバと云う言葉が極めて稀な語であるが「魔法使」と云う意味の独逸古語だと知ってからは、彼はこのニックネームを自他共に誇りとした。大学を卒業し軍隊へ半年ばかり行ったら八月十五日アンコンデイショナル・サレンダアとなって又研究室へ戻って来た。この間ずっと「ベン」でとおって来た。研究室を見たいと云ってやって来たアメリカ軍医の通訳は彼がした。二度目にその軍医が来た時軍医はドクタア・ベンと彼を呼んだ。はじめに来た時、彼を皆がベンと呼ぶのを聞いていたものと見える。その日からベンはドクタア・ベンに昇格した。
 彼は長い戦争で消耗しきった、一見手も足も出ない様に見える研究室にいるが時々すばらしいアイデアを掴む。早速文献をしらべ実験をはじめる。しかしその実験は予備実験にすら達しないうちに差し支えが出来てくるのだ。研究室の器材薬品の消耗は想像以上だ。
 そこで彼は最近、簡単な「工夫」を試みると云う程度の仕事にとりかかった。診断用の器械にレンズやプリズムや、ミラーを付け加えることによって器械は使いよくなり二重三重の威力を発揮した。今、彼がやっているのもその様な「工夫もの」である。
 眼底の撮影には特珠の物々しい装置がいる。そして撮れたものは頗るハッキリしない、もうろうたるものだ。彼は先ずどこの研究所でも持っているグウルストランドやトウルネルの固定双眼鏡に普通のカメラを取りつけることに成功し、光源に何とフラッシュランプを使用した。従来の光源に用いられた特珠電球がせいぜい数十燭光しか出せないのに彼の製作した特別のランプハウスに納められたフラッシュは実に数万燭光を発し、僅か六十分の一秒で撮影できた。こうして撮ったフイルムを現像した時、彼は文字通り声をあげて喜んだものだ。短かい撮影時間のために細い細い網膜血管迄実にハッキリと撮れていたのである。日本はもちろん英独仏いずれの文献を見てもこんなに良く撮れたものは見あたらない。最も良く撮れているものと比べたって月とスッポンとは云わない迄も、ツリガネと風鈴位の差はあるのである。これでは今迄の「工夫もの」の範囲を出ているぞとホクソ笑んだ。フォクトの細隙燈顕微鏡には及びもつかないが、これによる撮影成績は学術的報告のためにまとめて置く必要があると考えた。

 ここに於てドクタア・ベンは愛すべき凝り屋になった。実験室に残っていたビンの底にこぴりついている感光性色素を使って赤外線フイルムを作った。各種の眼底疾患の患者を次々に撮影した。こうして口の悪い宇木助教授の云う、秋葉スタジオ開業となったのである。
「もう何枚位撮ったかネ」
 と宇木さんは立ったままで聞く。
「ザット二百枚ですね。今日で六十九人目の患者《クランケ》です。今日のは六十九人目か何か知りませんが手こずりましたね。え? 例の増殖性網膜炎のクランケですがね。根ほり葉ほり器械のことや眼底写真のことを聞く癖に、こっちから聞くと自分の病気の経過については実にハッキリしないんですからね。あのクランケが入院した当時、発病以来の経過を聞きながらも思ったんですが一体バカなのか内気なのかと思っていましたが、その後の様子ではそうでもないし−」
「イヤあれはバカじゃないよ。眼のせいと思うが神経衰弱みたいになっているだけで仲々シッカリしてるよ」
「ええそうです。今日も器械の説明をさせられてつくづく思ったんですよ。器械を一寸いじったことがあるんでと云ってましたがね。仲々わかりがいいし眼底像を説明してやると夢中で聞き鋭い質問をしますよ」
「フウンそうかい。ところで君、このジャアナルにプロリフェランスの写真が出てるじゃないか。成程あまりハッキリ撮れんもんだな。こんなのに比べると君のは矢張どうして仲々大したもんだね」
 その時ドクタア・ペンは宇木助教授がもじもじしているのに気がつくのだ。
「これは気がつきませんでしたね。ハヴ・マイ・シガレット・ブリイズでしょう?」
 とさっきのコロナを差し出す。
「切れちゃったんで−。サンクユー」
 と照れ臭ささをふざけると部屋を出て行った。ドクタア・ベンは再びシガレツトをくゆらせ乍ら、六十九人目のクランケとの暗室に於ける問答を思い出していた。

「ねえ、先生一体これは何を測る器械なんですか? −これはね眼底を撮る器械なんですよ。え? 眼底ですか? 眼底てのはね、文字通り眼球の底ですよ。眼球は丁度写真機の様なものでしょう。人間の眼を前から見ると白眼と黒眼とがありますね。黒眼と云っても実際には茶目? ですかね。その茶目の中央に、も一つ黒い丸い所がある。瞳とか仏さんとか云っている所ですね。つまりこの茶目は写真機の絞りにあたるもので、その後にレンズがあるのです。人の眼ではこの瞳から入った光が眼の底の網膜にうつって始めて物が見えるのです。そこで今、この瞳の部分を通して光をこう云う複雑な装置を使って眼球内に入れてやると眼底つまりカメラならばフイルムの在る所ですね。くどい様ですが人間の眼ではフイルムの代りに網膜があるのですが、これが明るく光って見える。それをこの特珠の双眼鏡で見ると眼底が拡大されて網膜や血管がハッキリ見える。これが眼底を見る装置つまり検眼鏡の大ざっぱな理論ですよ。この検眼鏡の双眼の一方にカメラをこんな風にとりつける。そして双眼鏡の他の一方から覗きながらスイッチを入れる。それで眼底写真はO・Kです。これがこの器械で撮った色々の患者さんの眼底写真ですよ」
「ほほう眼底ってキレイなもんですな。私のもこんなになっているのでしょうかね」
「いや、それは一寸違います。えーっと、これ、これがあなたと同じ病気の人を撮ったものです。御覧なさい、この丸いお月様の様なものの上の方に白い真綿の様なものがあるでしょう。この人のはここだけですが、あなたの眼底では同様の白いものがこの下の方にも三角彪の小さいのがありますし−」
「と云うと眼底の病気はですね。同じ種顆の病気の場合でも、病状って云いますかそう云う見かけの上の変化がそんなに一人一人ちがうものでしょうか」
 ドクタア・ベンはこの内気なぼんやりした男の質問が、真剣で意外に鋭いのに驚きながら、
「いや、何も眼底に限ったことはありませんよ。或る痔の手術で有名な医者は、久しぶりで来た患者が、どうも先生、先生に一昨年診て頂きました時は−などと話しても、沢山の患者のことだから医者の方には記憶がない。ほんとにあの時は大変でしたな、なんていい加減にバツを合せているがサテいよいよお尻をまくらせて肛門を見た途端、ああ貴方でしたか! と云ったって話がありますからね」
 −ハハハハと第六十九番目のクランケは低く笑って納得し安堵した様に見えた。
「しかし貴方の病気はね、網膜に出血を起してはその跡がこうして白く残るんです。だから今の状態と数年後の状態とは余程ちがいますから、数年たって又珍せに来られたって私には思い出せないかもしれませんね。しかしその跡は多少とも残りますから注意すれば判るかも知れません。貴方の眼底では確かこのあたり、このお月様の右あたりです。ここに魚の形をしたものが薄く見えますが、それが数年前の古い出血の跡です。この跡を見れば三年前に貴方が治療を受けられたと云う大阪のA先生は、ああこの患者かと思い出されるかも知れませんね」
 その時患者は深い息をし、たたみかける様に早口で質問をした。その質問の意味がハッキリしない程に。ドクタア・ベンがその質問は眼底写真の各部分の説明だと早合点したくらいに。
「いやお月様とさっきから云ってるのはね。乳頭と云って大脳から出て来た視紳経が眼球内に顔を出した部分で黄色く丸く見えるので我々はそう呼ぶのです。そこから四方にヒトデの腕の様に伸びているのが、網膜の血管です。血管は網膜の上をこうして走っているので、細い方が動脈、太いのが静脈ですよ。このお月様の左の楕円形の部分が黄斑部と云って物を視る時の中心点です。写真ではこの薄黒く見えるところ−」

 ドクタア・ベンは暗室内での問答をここ迄反芻した時、手にしたシガレットが短くなったので灰皿をさがした。灰皿はアメリカン・ジャアナルの下にかくれていた。アメリカン・ジャアナル・オヴ・オフサルモロジイ、つまりアメリカ第一流の眼科雑誌の一九四一年号である。彼はそこに載せられた眼底写真を見た。それはさっき宇木助教授がここにも増殖性網膜炎《プロリフエランス》が載っていると云ったその一枚である。ドクタア・ベンはずい分自分の方が良く撮れているのに満足しながら、その一枚を眺めていたが突然オヤと思った。それには乳頭の右上に魚の形をした出血部が見られるのである。今日の第六十九例の患者と実に良く似ている形だ。然し彼のはもう少し下であった様に思うが、それは現像して確めなければハッキリしない。そんなことよりも先ず眼底全体の第一印象が非常に似ている−。
 第一印象とは非科学的な云い方だが、これは科学の世界でも時として決定的な意味を持つ。チフスの患者をめぐって若い医者が、やれウイダアル反応が出るとか出ないとか云っている時老練な医者は「それでも、どうもこの顔じゃ間違いないねえ」と首をかしげることがある。内科の看護婦長は入院当日の第一印象で死ぬか死なぬかピタリとあてるものだし、又或大学の寄生虫の教授は糞便を見ただけで、男女の別や年齢をあてるとさえ云うのだ。
 彼は急いでその論文の本文を読んで見た。ロサンジェルスのジポウクス氏の論文で問題の写真の説明には、
 第三例 K・M氏、三十八歳、男子、日本人と書いてあった。K・Mならばあの男の頭文字ではないか! 年齢もピッタリ合う。これは面白い。ひどく物ずきなドクタア・ベンは、暑さ凌ぎのいい材料だと喜んでしまった。それにしてもあの男アメリカに居たとはオクビにも出していないがと不安になりながら、急いで現像にとりかかった。こう云う興奮をそそる材料を扱うとなると彼は却ってニヤニヤと落つくのが常で、悠々と実に素晴らしい現像をやってのけたのである。

 フィルムの後半にこの第六十九例氏の影像が見られた。そしてそれには、ずい分古くなって薄い跡を残すだけであるがアメリカン・ジャアナルのジポウクス氏の第三例と全く同じ形の魚形出血部を含んでいたではないか!
 K・M・三十八歳・男子・日本人、そしてこの「魚」、これだけでK・M氏と第六十九例とが同一人だと云えないだろうか?
 それは充分考慮を要することだ。先ず三十八歳・男子・日本人と云う個人は統計によると四十万はいる筈だ。然しK・Mと云う名前の個人は大ザッパなものだが、組合せ及び確率から計算してその四百分の一になるから千人しか居ない。これにプロリフェランスの発病率は眼病中一%内外だからその千人の内一人居るか居ないことになる。しかも殆んど同一部位に同じ形の出血部を持っている。これでは同一個人と断定してもよいわけだ。個人が決定すると後はこのK・M氏と今ここに居る第六十九例氏の時間的空間的空虚を埋めることだ−とここ迄考えた時ドクタア・ベンは法医学に於ける個人決定の厳密さ困難さを突然思い出した。そして今自分のやった推理が頗る怪しく思われて来た。第一K・Mと云う頭文字だってアテにならない、K・Mが偽名だとしたら彼の推定は四百倍も不確かなものになるのだ。
 然し同時に彼は法医学上、個人決定に用いられているベルチヨナアジュ、指紋法、と共に網膜血管の走っている形状の分類が充分役に立つと云う事を三年も前の講義で聞いた様な気がしたのである。
 彼はタバコがすいたいなと思いながら、然し宇木さんの所へまだ残っているかも知れないタバコを取りにゆくことさえ我慢して、すぐに階段を下り法医学の佐藤助教授に教えを乞いに行く凝り屋であった。

2

 蒸暑い廊下づたいに法医学教室に近づいた。有名な殺人事件に証拠を提供した標本や、実に美しい本身《いれずみ》を一面に施した背中の皮や、およそ世の人々の猟奇趣味を満足させるに足るものがズラリと竝んだ、薄明るい然し余程涼しい標本室に彼は自分より一年先輩の山本さんを見出した。
「やあ、しばらく、佐藤先生はどちらに居られますか」
「いや、生憎お留守でね。どうかしたのかね」
「そうですか。何時お帰りでしょうか」
「明後日、ウッカリするともう一日あとかな。教授は何かお芽出たいことがあって休暇を取って居られるし、今誰も居られん。自分一人だ」
 復員後間も無い山本さんは軍人口調が抜け切れない。
「それじゃ、これは詰まらないことですがね。ひとつお尋ねしたいんですが−」
 とドクタア・ペンは簡単に説明した。
「フクン、眼底血管が指紋の代用になると云う訳だな。そう云うことがあるのか、イヤ自分はさっぱり知らん。図書室の鍵は預っとるから調べるだけ調べて見ることだ。どんな本を見れば出てるかって? そういじめるなよ。南方ボケしたあげく、やるつもりの無かった法医をやってるんだ。佐藤さんが居られるといいのだが、T町に一寸した事件があって今朝、中田さん多田さんと三人で行かれた。昔はイヤがったもんだそうだがな、あんな田舎ヘパッとしない事件で行って、暑いから死体はすぐ物凄い臭気を放つしウジは湧くし、材料もって帰るにも臭いしな。所が今じゃ警察関係で行くと大っぴらで安い買出しが出来ると云うんで、皆喜んで行くんだ。変れば変ったもんさ。ハハハハ−」
 彼はいろいろの意味で、その復員軍医の笑声に空虚な冷たさを感じた。

 案内された図書室には三方の壁にギッシリと背文字も美しい洋書が竝んでいた。
「今も云った通りだからな。マア載っていそうな本を自分で捜して呉れ。日本語の本なら自分の部屋にも少しあるが役に立つまい」
 その通りであった。科学の世界に於て日本語の本が如何に貧しいものであるかは、戦争中デタラメな宣伝を聞かされていた門外漢諸君の想像以上であろう。ドクタア・ベンは英独仏は先ず不自由なく読める。辞書片手にならロシア語だってイタリ語だってどうにか行ける。だから平気な顔をして部厚い本の背文字を眺め廻すのだ。
 部厚いと書いたが全く四寸位の厚さの、片手で持つには重い様な本ばかりが其処に竝んで居た。それらは法医学全般に亙って一通り書かれた教科書的なものの様であった。彼はその一冊一冊を丹念にしらべる。
 クリイヴエンジャアやメイモットとタイデイの法律医学は、どれもこれも一貫匁以上ありそうな上下巻二冊ものである。これ等は一寸古い本であるせいか網膜のモの字も書いて無かった。もっと新しいものは無いかと捜すと、美しい背文字のテイラアの「法医学の理論と実際」、べタアス・ハインス・ウエブスタアの「法医学と毒物学」が眼についた。彼は此等の個人鑑別法の項を一ペイジ一ペイジ見た上その他の項をも一通り読んで見た。然しこれにも載っていない。トアノウやヴイベエルなどフランスの学者の書いた法律医学も読んで見た。ホフマン・ハベルタのものリヒテルのもの、メルケル・ワルヒエルのもの等、ドイツ人らしい克明さで書かれた裁判医学的診断学を汗をたらしながら繰って見たが矢張り無駄であった。
 もっと詳しいものは無いかと彼はその左の棚に取りかかった。そこには千頁以上の大部なものが数巻、十数巻と竝んだ所謂叢書ものが竝んでいた。ウオルトン・スチレやウイツタウス・ベッカアのものは四巻ものだが、デイトリッヒの医学的鑑定論は十二巻、ブルウアルデルの法医学叢書は十六巻もあった。これだけのものならば、きっと詳細にその事に、触れているに違いないと彼は安心し、その一冊一冊に眼を通したのであったが、どれを見ても網膜血管も写真も無かった。
 個人鑑別にはベルチヨナアジュと指紋法とが王座を占め血液型や歯列や骨格や筆蹟などが論じてあるに過ぎず、唯その詳細さに於て差を見るだけであった。
 夢中になると何もかも忘れてしまう彼は、先刻から汗でビッショリになって居ながら窓が閉った儘になっているのにも気がつかないのだ。苦笑しながら窓を開けたものの、特に休む訳でなく、すぐ高い書棚へ梯子を掛けた。上の方にある書物には梯子に乗らなければ眼が届かないのだ。
 彼は其処に「特殊な」書籍群を発見した。彼の眼の鋭さはその中からロホテの個人鑑別の諸方法論とエドモンド・ロカアルの前科者の個人識別法と、カアル・ロイテルの法医学に用いられる写真術とを選び出したのである。彼はこの本の中にこそと云う気持になるといつもの癖でニヤニヤしながら、その三冊を重そうにかかえて梯子を下りた。
 机の上にそれを置いて先ずロイテルの目次から見る。光線や露出、生人撮影死体撮影、微細撮影顕微撮影と詳細に叙述してある其の内容に喜んで、彼は頁を丹念に繰った。然しロイテルは何も教えなかった。「犯罪学論攷」の大著で名高いフランスのエドモンド・ロカアルも、ドイツの大家ロホテもその詳細な個人鑑別論に網膜血管の事など全然書いていないのである。
 此処でドクタア・ベンは漸くカブトをぬいだ形であった。
「これだけの本に書いてないとすると−」彼は独りごち乍ら考え込むのである。講義でそう云う事を聞いた様に思ったのは何かの間違いかも知れない。現に山本さんは「そんなことがあるのか、イヤ自分はサッパリ知らん」と云ったではないか。

 窓の外は既に夕暮めいて、ひぐらしの声が一分の間も置かずに聞えて来る。彼は三時間あまりもこの図書室に居たことに気付き、ゆっくりと立上る。筆蹟学や指紋学や性格学や犯罪心理学など、ふだんの彼の興味をそそる美しい背の洋書も疲れた眼には最早魅力を失うのだ。ポケットをさぐってタバコの無い事に気付くと又一段と疲れて、彼は急いで自分の研究室へ戻ることにした。

3

 研究室に近づくにつれ彼は一種の焦燥におそわれた。K・Mが偽名であったならば、自分の推定が四百倍も不確かになると気付いて此の騒動を始めたのだが、もともとジポウクス氏のK・M氏と第六十九例氏とが同一人であろうと無かろうと大した問題で無いではないかと思って見る。しかし−と又考えなおす。
 ほんの暑さ凌ぎにはじめたには違いないが矢張りキチンと結果をつけなければ気持が悪いものだ。それにしても、こうして調べたあげく血管の走向状態による個人決定が出来ないとわかった以上、一体どうすればいいのか。出血部の眼底各部に於ける出現頻度や年齢との関係をしらべて純粋に確率論の上から同一人で有りうる可能性を決定出来ないだろうかと考えてみる。その為にはアメリカにいる日本人の諸統計は勿論だが、尨大なプロリフェランスの諸文献をまとめなければなるまい。彼は何故こんなことにカを入れなければならないかと云う反省を今は忘れて唯、焦々として来るのであった。
 その時丁度眼科の病室の廊下に来た。ドクタア・ベンは何を思ったのかサッサと病室の方へ入って行った。暑い事とてそれぞれに服装を乱している患者達は彼を見てあわててベットにもぐり込んだり、やあ飛んだ格好を見られてと頭を掻いたりするのだった。
 第六十九例氏も半ズボンだけの格好であった。彼は静かにその姿を注意して見た。半ズボンの生地は、しっかりしたコットンで、こちらに来ているG・Tたちの軍服を思わせるものだ。バンドは長さだって丁度いい長さだし必ずしもアメリカものでも無さ相だ。ところが其の止め具だけは和製じゃない。例の透明なプラスチック製のしゃれたデザインのものである。然しこんなものは戦争中も上海あたりからのお土産に貰った人だって居るから断定を下すわけにゆかない。ドクタア・ペンはあれこれ考えると躊躇しながら、しかし思切って立て続けに聞くのだ。
「あなたはロサンジェルスに居たことがありますね? ジポウクスと云う眼科医にかかったでしょう? その頃も今と同じ病気をしていたでしょう?」
 第六十九例氏は、瞬間ハッと息を呑むのだ。
「いえ−いえ。そんな訳では、イヤそんなことは−ありません。一体あなたは−」
 驚く程あわてて必死で打消すのだ。可愛らしい犯人? よ。これは大した者じゃ無いなと判るとナサケ深いドクタア・ベンはサッと背を見せて、もう自分の部屋へと靴音を響かせているのだ。

 部屋には宿直者のための夕食が冷え切っていた。それを食べながら今の患者の無邪気にあわてた顔を思い出して苦りきっていた。何と、まあ簡単に解決したことよ。ドクタア・ベンは憂うつであった。昼すぎから今迄かかっての科学的?推論よりも一言カマをかけることの方が遥かに有効だったとは考え様によっては「痛快」なことであった。これ故に世の刑事諸君は拷問を愛し、聞込みを重んじ、カンを尊び、コワイ眼を養う筈だ、科学的捜査なんて高価な玩具、不経済な遊戯と思う筈だ、と苦笑しながら考える。
 それにしても残念だな、佐藤助教授が買出しに行かなければ、第六十九例氏に一言だって聞かなくても、科学的に解決できたかも知れぬものを。こいつも矢張り食糧不足が原因かな。
 食事を終ると先程放り出していったアメリカン・ジャアナルを拡げながら、もう一ペん許しく読む。その増殖性網膜炎はニ硫化炭素の中毒によって起った中心性網膜炎に続発したと書いてある。彼はその時論文中の一事実に疑いを持った。しかしこれも又彼の考え違いであるかも知れない。それを確かめるために新眼科学叢書の第一巻、ブリックネルの臨床的眼科診断学を書棚から下ろした。バラバラとぺイジをめくってゆくと何かしらハッとするものが眼についた。小さい活字で書かれた行の中に犯罪学的と云う文字が有ったのだ! 何時もの彼の眼なら素通りする筈なのだが、つい先刻迄そう云う本やそう云う文字ばかり見ていた眼にはこのスペリングは、さながら痛いトゲの様にひっかかったのであった。こう云う現象は古いヴェルムヘルム・ヴントの心理学でもフロイドのそれででも容易に説明できるものだ。彼はニヤリと笑って其の記載を読む。
 ビイドル、レヴインゾオン等はノルデンゾン・カメラを使って眼底血管走行の状態を犯罪学的個人鑑別に用うる方法、及びその記録をフイルムに残す方法を研究した−と其処に書いてあるではないか!
 バイザイ! 彼はやっとリュウインがさがった思いであった。しかし−と又考えるのである。どの程度迄血管走行の形が一致している時、同一個人だと云えるのか。それはこのビイドルやレヴインゾオンの書いた論文を見なければ判らない。一眼の眼底血管による個人決定と云うものが指紋法、それも単一指紋法に匹敵する困難さが予想される以上、此処で安心するのは早いと云うものだ。あの煩瑣な指紋法に比べて、単一指紋法が十倍も複雑であることは読者諸氏は良く御衆知であろう。
 彼は総合図書館にある筈の、その原論文を載せたニュウヨオク州の医学会誌とドイツの眼科学会報とを出して貰うために伝票を書き、サインをすると其れを階下の詰所に居る看護婦の所へ持って行こうと椅子から立上った。そして看護婦に今晩すぐ取って来て貰う様に頼もうと思った。
 彼がドアに近づいて勢よく開けるとドアはガタンと何かにぶつかった。其処には立っている人影があった。彼は不気味な人影に、かなり吃驚しながら、大丈夫ですか、ケガなさいませんでしたか、と聞いたが、その人影が第六十九例氏だと判ると、ドアの近くに立って中を窺っていたらしい様子に不気味さと無礼とを感じて、
「あなたはK・Mさんじゃありませんか。一体こんな所に来て、どうなさったんです」
と鋭く訊くのだった。
 彼は何も言わないで、おそるおそる然し後に引かぬ図々しさで部屋に入り込むとドアを閉め、
「先生、いよいよ私をつかまえに来たんでしょう? 私も却って気分がサッパリ致しました。この儘続いてれば私は神経衰弱どころか気狂いになりますよ」
 彼の目はほんとに気が狂った人の様にみえる。ドクタア・ベンは学生時代の精神科の臨床実習の時の様にそれをなだめるのだ。
「まあまあ、そこへお坐りなさい。そしてあなたの仰しゃることを良く聞かせて下さい」
「いや、私よりも先に先生、何時ここに警察から問合せが来たのか。それから又−」
「そんなことを今になって聞いてどうするんです。逃げようたって逃げられるもんですか、この狭い日本で−」
 ドクタア・ベンは自分が知らず知らずのうちに、世の刑事諸君と同様にカマを掛けることや、カンを働かすことを愛しているのに苦笑しながら、そう宣告した。
「つつみ隠さず話して下さい。相談相手になれるかも知れません」
「左様でございますか。そいじゃスッカリお話し申しましょうか」

4

 私は先生がさっきおっしゃった通りロサンジェルスのドクタア・ジポウクスに珍て頂きました。そしてその時、今の様な病気をしていたことも事実です。しかしそう云う事迄どうして−。いやこれはお尋ねしますまい。先ず私の方から何もかもお話する約束でござんしたからね。
 私はロサンジェルスに行く前、まるで反対の方角のビツパアグに居りました。此処で私は或る人絹工場に働いて居りました。はじめは材料を運ぶ一番下級の工員でしたが、だんだん手先の器用なことが認められて、工場内の「よろず修繕係」と申しますか、そう云う工作方面に廻され報酬も悪くなく本当に幸福でした。工場の工作部にもかなりの人が揃って居るのですが自慢になりますけれど、何もかも私より腕は落ちると云っても良いのです。殊に熔接は全然それ迄に未経験だった私が断然上手になりました。眼科の先生なら御存知でしょうが、あの時出る強い閃光に対しては白人よりも我々は余程抵抗があるのだそうですね。工場内のすべての個所の熔接修繕には私が出て行く様になりました。
 そうする内、或日仕上工のアリスと云う女とフト知り合いになりました。アリスは気だての優しい女で私は真剣に結婚を考えました。その頃です、日本とアメリカとの状態が面白くなくなったのは。しかしアリスと私とは互に信じ互に愛し合っていましたし、そんな事は平気なつもりだったのです。ところがエ作部の連中はもともと素人の私の為にかねて面目をつぷされ通しだったのもあって−これは私のヒガミかもしれませんが−あの手この手で今にも日米戦が起る様な話をし早く日本へ帰った方がいいとすすめるのでした。私はアリスのこともありますし、まさか日本が戦争を仕掛けるとは思いませんでしたのでそれを聞き流して居ました。
 併し、運命はイタズラなものです。三月三日、私はこの日は日本では女のための一年一度の祝祭日だと云う事を話してやろうと色々のプレゼントを携えてアリスを訪れました。その時アリスは自動車に轢かれて、かつぎ込まれて来ました。そして私の贈ったキモノを美しいと云いながら息を引取りました。その日から私は工作部の意地悪に耐えられなくなり、一日も早く日本へ帰りたい、この悲しみの土地を去りたい、と思う様になりました。
 私は工場を辞める機会を待ちました。何故なら工作部は私をイヤがっていましたが、工場内の連中は大抵、頼めばすぐ来てくれる此の腕のいい日本人を歓迎していましたからね。そこへ丁度いいチャンスが来たのです。医務室のドクタアがお辞めになって代りに若い学校を出たばかりのドクタア・ホジキンが見えました。学校を出ただけのドクタアは臨床の腕は怪しいものですから−彼は経験で叩きあげたらしい自信でこう云うのだが、聞いているドクタア・ベンは冷汗が流れるのを感じた−この人に病気だと云って診断書を書いてもらって辞めようと云う方法でした。イヤ、この方法もそれから次にお話しする実際の技巧も熔接係のジョオの入れ智慧が大いにあるのです。サテ実際にどうするかと云う事ですが、私たちが熔接を長いことやりますと、翌朝起きた時までも眼の前に黒い血の様なものが見えることがあります。これが普通は二三日すれば癒るのですが、本当に眼をやられると何時迄も眼前が暗いものだ相です。この病気になると無論エ場は辞職を認めてくれるのです。私はこれをやることにしました。二日位でなおってはいけませんから、恢復に五六日かかる程度に眼をいためてやろうと思いました。
 ええ、確かに危険な方法です。然しジョオの話では此の間やめたタップスだってその手でやって今は何ともないと云うのです。彼等はどれ位あの閃光を見つめたらどの程度眼がやられるかを良く知っているのです。
「なあるほど」
 ドクタア・ベンは世の中には悪い奴も居れば居るものだ、然しいい方法だなと眼科医らしく感心して合槌を打った。
「ドクタア・ホジキンは暗室で色々検査をされましたが、案外簡単に診断書を書いてくれました。私はそれを使って首尾よく辞めることが出来ました。それだけなら良かったのですが、この病気は明らかに職務に熱心な為になった病気だと云うので公病として扱われ、思わぬ多額の保険金を貰うことになったのです。しかも日本へ帰るのならと一時払にしてくれたのです。これには会社の保険係に居たナンシイと云うのがアリスの親友だったので色々尽力してくれたのだそうです。
 私はドクタア・ホジキンに一寸診断書を書いてもらうと云う積りだったのが、これでは保険金詐欺になったことに気付いて俄かに恐ろしくなりました。この上は一日も早く船に乗ろうと大陸を横断してロサンジェルスに参りました。−え? 眼の方ですか? 眼は四、五日ですっかり癒りましたよ。
 ロサンジェルスでは矢張り日本は戦争をしないと云う意見が圧倒的でしたし、思わぬ用事も出来て私もつい一月二月と出発を延ばしていました。すると段々眼の見え工合が妙になって来ました。私はああ云うトリックを使った罰だと後悔して郊外にあった郡立病院《カントリホスピタル》へ行って診てもらいましたら、其処のドクタアはロサンジェルスの中央病院のドクタア・ジポウクスヘ診てもらう様にと紹介状を書いて下さいました。運のわるいことにカントリイホスピタルで私は本名を名乗ったのです。私は後ぐらい気持から其の頃ほとんど本名は使わなかったんですがね。それで紹介状にはチャンと本名でK・Mと書いてありました。ジポウクス先生は立派な学者らしい方で実に丁寧に診察され、暗室内での検査は更に複雑でした。暗室を出るとドクタアは、眼の底に出血があるし又眼の中心にも病変があると云われました。これではホジキン先生に診てもらったのとは全然ちがった病気なのです。
「あなたの工場は人絹工場でしたね。それじゃ二硫化炭素は余程使うわけですね」
 ドクタア・ベンは勢いこんで訊いた。すると第六十九例氏は驚きに眼をみはって答えたのである。
「どうして、それをお聞きになるのですか? ドクタア・ジボウクスもその通りの質問を丁度その時なさったんですよ。あなたは若いけれど何か凄いところがおありだ」
 ドクタア・ベンはニヤニヤしながら、二硫化炭素の中毒によって中心性網膜炎を起し、それに重ってプロリフェランスが続発している眼底の状態を頭に描いて「それから」と先をうながした。
「もっと驚いたことには、その時、看護婦が近寄って来て、ピツバアグのドクタア・ホジキンがお目にかかりたいと其処にいらっしゃいました、と云うではありませんか。私は観念して、ええどうぞ、と云おうとしました。すると何とドクタア・ジポウクスが、ほう、そうかい、じゃK・Mさん一寸待ってて下さい、と云ってサッサとドアをあけて出て行かれたのです。私は狐につままれた気持でいると、看護婦は彼等は叔父と甥になるのだと説明しました。一たん観念した私もドクタアが中々戻って来ないとなると、此の間に逃げてやれと云う気になり、その儘走る様に病院を出ました。
 それから直ぐの便で私は日本へ帰りました。日本へ帰ったって不安は同じことです。其処へありがたいことに帰ってしばらくして此の戦争が始まり私はやっと安心しました。あの時ドタタア・ホジキンとジポウクスとの話に私が登場したのは当然でしょうし、紹介状には本名が書いてありましたし、戦争さえ始まらなければ国際詐欺犯として指名が来る所だったんでしょうからね。
 さて四年近く続いた戦争が終って占領軍が進駐して来ました。開戦を喜んだ私は降伏したと聞いて、いよいよ来るべきものが来たと腹の底迄、青白くなった思いでした。それから御承知の様に厳重な資格審査や戦犯追及が始まりました。私はその峻厳な態度を見るにつけ、此れが済めば今度は私を何処までも捜し出すぞ、と恐ろしくなって来ましたので、私の経歴を知る人達が占領軍関係の仕事をすすめるのを断って、こちらへ参りました。眼の方は戦争中も少し悪かったのですが、こちらへ来てますます悪くなったのです。眼に悪いだろうとは思いますが、ここ三四ヶ月と云うものは心配で夜もねむられずに居るのです。今日の昼、先生が私の眼のシャシンを撮られたので何だか怪しいと思っていました所に、果して先程あのお言葉でしょう。私は進退きわまって、もう此の上は仕方がない。先生のおっしゃる様に狭い日本では逃げようたって逃げられるもんじゃなし−」

 ドクタア・ベンは此の哀れな患者のやつれた顔を眺め、その進んだ「神経衰弱」は確かに眼の治療を妨げている、と診断した。そして入院以来の香ばしくない経過を思い出したのである。
 体を医すは小医、心を医すは中医、大医は即ちよく国を医す、と云うコトバがある。ドクタア・ベンは若輩なりと雛も幸いに中医の器を備えていたのだ。
 即ちいわく。
「誰もあなたをつかまえになんか来ていません。大丈夫ですよ。此処にドクタア・ジポウクスがあなたの事を書いた、アメリカの眼科学雑誌があります。これにチャンと『此の患者は人絹工場に働き、その二硫化炭素中毒による中心性網膜炎を発し−』と書いてありますし『それは熔接作業を得意とせる本患者にありては、その閃光による照輝性網膜炎(日蝕観察の際見らるる事多き)である可能性大にして−』とも書いてあります。又『増殖性網膜炎も彼の熱心なる作業による過労が其の誘因をなしたとも考えられ−』と書いてあるんですよ。この調子ではジポウクスはホジキンから、あなたが工場を辞める前後の事、殊に甥のホジキンが保険金支払を認めると云う診断をした事、については充分に聞いている様ですね。彼は甥の誤診を弁護? する積りで書いたのでしょうが、その点はクドイ程かいていますよ。保険金のことは心配なさるに及びません。
 この雑誌を見ただけでも、あなたをつかまえに来る筈は無いじゃありませんか。
 ドクタア・ホジキンの誤診こそ問題になりますよ。
 ご安心なさいよ」
 第六十九例氏即ちK・M氏は良く見えぬ眼を、その雑誌に走らせ、二硫化炭素中毒と云う表題中の文字を指さされて納得した。
 ドクタア・ベンは第六十九例氏が安心し切って部屋を出て行ったあと、今自分の施した「治療法」は少々、尾や鰭が付き過ぎていたかも知れないが、医者として適切であったと満足した。

初出誌「宝石」1947年2-3月号/底本「幻影城」1976年12月号No.41


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